大判例

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東京地方裁判所 平成元年(ワ)13592号 判決

原告

山中正晴

渡辺幸利

渡辺絢子

右三名訴訟代理人弁護士

三枝基行

神山美智子

被告

大橋克洋

右訴訟代理人弁護士

高田利廣

小海正勝

主文

一  被告は、原告山中正晴に対し、金三〇〇三万五八九円及び内金二〇〇〇万円に対しては平成元年一〇月二一日から、内金一〇〇三万五八九円に対しては平成四年四月八日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  被告は、原告渡辺幸利及び同渡辺絢子に対し、それぞれ金七七五万七六四七円及び各内金五〇〇万円に対しては平成元年一〇月二一日から、各内金二七五万七六四七円に対しては平成四年四月八日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

三  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

四  訴訟費用は、これを四分し、その一を原告らの負担とし、その余を被告の負担とする。

五  この判決は、第一、第二項に限り、仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  原告ら

1  被告は、原告山中正晴に対し、金四一〇二万六六二三円及び内金二〇〇〇万円に対しては平成元年一〇月二一日から、内金二一〇二万六六二三円に対しては平成四年四月八日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  被告は、原告渡辺幸利及び同渡辺絢子に対し、それぞれ金一二七五万六六五五円及び各内金五〇〇万円に対しては平成元年一〇月二一日から、各内金七七五万六六五五円に対しては平成四年四月八日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は、被告の負担とする。

4  仮執行宣言

二  被告

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は、原告らの負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

(一) 原告山中正晴(以下「原告正晴」という。)は、訴外亡山中和美(昭和三一年三月一〇日生。昭和六三年三月二七日死亡。以下「和美」という。)の夫、原告渡辺幸利(以下「原告幸利」という。)は、和美の父、及び原告渡辺絢子(以下「原告絢子」という。)は、和美の母である。

(二) 被告は、東京都品川区〈番地略〉に居住し、同所で産婦人科医院(以下「被告医院」という。)を営む医師である。

2  本件の経緯

(一) 従前の状況

(1) 和美は、昭和六三年(以下、特に断らない限り、同年中の事実をいう。)一月当時、三月二五日ころを分娩予定日とする三一歳の初産婦であり、一月八日から、被告医院へ定期的に通院し、受診していた。

(2) 和美は、昭和六二年八月二四日の血圧が、収縮期一〇六mmHg、拡張期七六mmHg(以下、両値につきそれぞれ「最高」「最低」と付して単に数値のみで表す。)であったが、その後、以下のとおり、血圧上昇、浮腫及び蛋白尿が見られた。

ア 二月二日(妊娠後期三二週) 血圧最高一四三以上・最低七八

イ 同月一五日(妊娠三四週) 血圧最高一四〇・最低七八、尿蛋白「+」

ウ 同月二二日(妊娠三五週) 血圧最高一三三・最低七四

エ 同月二九日(妊娠三六週) 血圧最高一四二・最低八七

オ 三月七日(妊娠三七週) 血圧最高一四四・最低八四、尿蛋白「+」

カ 同月一四日(妊娠三八週) 血圧最高一六九・最低九九、尿蛋白「+」

キ 同月二二日(妊娠三九週) 血圧最高一七七・最低一〇五、尿蛋白「+」

右の状態からして、和美は、二月二日以降、軽度妊娠中毒症に罹患していたものである。被告は、右状態から、三月七日、妊娠中毒症と診断し、同月一八日前後に分娩誘導を施行することをも考え、その可能性がある旨カルテに記載した。また、同月二二日時点の最高血圧は重症に相当するものである。

(二) 和美の入院と事故の発生

(1) 和美は、出産のため実家に戻っていたが、三月二七日(妊娠四〇週二日)午前二時(以下、特に断らない限り、三月二七日の時刻を指す。)ころ、急激な腹痛等が発症し、被告医院に行き、午前二時一五分ころ受診し、入院した(以下、右時点を「本件入院時」という。)。

(2) 和美は、急激な腹痛、頭痛、嘔気、背部痛を訴えた。被告は、消化器の炎症、胃腸炎と診断したが、和美の血圧を測定せず、かつ、以後、午前八時五〇分ころまで、直接和美を診断しなかった。

(3) 午前四時、夜勤の矢作準看護婦が巡回したが、和美は、なお頭痛、嘔気、嘔吐、背部痛、胃痙攣様の症状を訴え、午前六時、八時の時点でも頭痛、嘔吐が継続していた。

(4) 午前八時五五分ころから、被告は、和美の右症状に対する処置として、抗生物質ホスミシンと輸液ラクテックを点滴投与した。

(5) 午前九時ころ、和美は呼吸困難に陥り、被告は、和美に挿管し、デカドロン(副腎皮質ホルモン)、テラプチック静脈注射(呼吸循環ふ活剤)、カルニゲン(循環調節剤)などを投与して心臓マッサージを施行し、その後、応援の医師を依頼したが、和美は、午前一〇時二五分ころ死亡した。

3  和美の死因

和美の死因は、大脳右半球被殻部出血である。大脳被殻部出血は、大脳基底殻出血のひとつである。

和美の右脳出血の発生機序は、次のいずれかである。

(一)(1) 高血圧だけでは脳出血は起こらないが、逆に、高血圧症に罹患していなくとも、血管が脆弱な場合、血圧上昇により血管が破綻して出血する。非高血圧性脳出血、すなわち、高血圧性ではなく血管の脆弱性による出血する場合の原因としては、血管の先天的奇形、基礎疾患、血管の病変、血液疾患などが挙げられる。

(2) 一般に、正常妊娠でも、その進行に伴い妊婦の血清蛋白が低値となるが、妊娠中毒症では、血清蛋白がより減少する。蛋白尿がある場合、更にその傾向が強い。そこで、妊婦は、妊娠後期になるほど血管壁が脆くなり、出血しやすくなる可能性がある。

(4) 和美には、先天的奇形、脳腫瘍、動脈瘤破裂など脳出血の原因となる血管の脆弱性をもたらす基礎疾患はなかったが、蛋白尿を伴う妊娠中毒症に罹患し、低蛋白状態、出血しやすい状態になっており、これに、前記2(一)(2)のとおり妊娠中毒症による高血圧状態が継続していたことが加わって、脳出血が発症したものである。

(二) 仮に(一)のとおりでないとしても、妊娠中毒症の特殊型として、予癇、常位胎盤早期剥離などとともに、頻度は高くないものの「妊娠中毒症脳出血」があるところ、本件入院時の和美の前記2(二)(2)の各症状は、その徴候に該当するものであり、和美は、妊娠中毒症性脳出血により死亡したものである。

4  被告の過失・債務不履行

(一) 治療の懈怠・予防措置の欠如

(1) 妊娠中毒症は、高血圧、蛋白尿及び浮腫を主症状とし、重症妊娠中毒症は、蛋白尿値がエスバッハで三パーセント以上、浮腫が全身に及び、又は血圧が最高一七〇以上・最低一一〇以上のいずれかの場合をいう。

(2) 妊娠中毒症は、様々な合併症を引き起こし、母体死亡にもつながる重大な疾患であるから、分娩介助を行う医師としては、早期に適切な観察、指導、治療を行い、その悪化を防止する義務、及び重症となった場合に適切な治療を行う義務がある。

(3) 妊娠中毒症の治療としては、早期発見、安静及び食餌制限が効果的である。重症の場合は、まず入院させて絶対安静とし、排尿、排便も床上で行わせ、毎日、尿量、尿蛋白、尿沈渣を検査し、血圧は最低朝夕二回測定した上、適切な処置を講ずるべきであり、高血圧症状に関しても、降圧剤などの薬剤療法が必要である。胎児への影響を考慮しつつ薬剤の選択に注意すべきことは当然であるが、胎児への影響を考えて薬物治療をしないというのは本末転倒である。比較的安全な薬剤として、アプレゾリン、アルドメットがある。また、妊娠中毒症の病状が更に悪化して軽快しないときは、直ちに妊娠を中絶するべきである。

(4) 和美は、懐胎時三一歳の高齢初産婦であって、前記2(一)(2)のとおり、既に二月二日ころには軽度の妊娠中毒症に罹患し、被告自ら三月七日に妊娠中毒症と診断していたのであるから、食餌指導や場合により薬物治療をすることが必要かつ可能であった。そして、右治療をしていれば、和美が死亡した同月二七日まで二〇日以上もあったのであるから、重症への移行を防止できた。

(5) また、その後、妊娠中毒症は悪化し、同月二二日には重度妊娠中毒症の相を呈したのであるから、仮に胎児の安全を考えて降圧剤の使用を避けるとしても、せめて直ちに入院させて絶対安静とし、適切な処置を採るべきであった。

(6) しかるに、被告は、軽症のうちに治療し重症化を防止すべき義務及び重症となった以降適切な治療をすべき義務をいずれも怠り、三月七日、一四日及び二二日の三回、子宮頸管熟化剤マイリス1Aの静脈注射をしただけで他に食生活の指導や安静の指示など何らの適切な治療をせず、漫然と放置した。このため、和美の妊娠中毒症の重症化とこれに起因する脳出血をもたらしたものである。

(二) 血圧監視義務違反

和美は、妊娠中毒症とその重症化により高血圧状態であったところ、本件入院時、みぞれが降る寒い夜に被告医院まで歩いて行った上、後期(三)(2)のとおり脳出血の徴候を呈し、右判断は妊娠中毒症及び脳出血の基礎的知識があれば可能であったのであるから、血圧が上がっていないか十分確認する義務があった。しかるに、被告は、和美の血圧状態を軽視し、血圧を測定せず、また入院後、看護婦に血圧を測定して観察させることを怠った。

(三) 入院時誤信

(1) 一般的予見可能性

ア 和美は、被告との間で、母子ともに健全に出産に至るよう、被告が医師として専門知識を技術を用いて介助することを内容とする準委任契約を締結し、被告は、当時の医療水準に応じた内容の注意義務を負っていたところ、和美が死亡した昭和六三年当時の医療水準からして、妊娠中毒症の危険性のみならず、高血圧と脳出血との関係、陣痛が誘因となって、血圧が最高一七〇・最低一一〇位になることがまれにあり、その結果、脳出血が発症することがあること等は、産婦人科医師の常識であった。したがって、被告は、二〇年以上の経験を有する産婦人科医として、妊婦が低蛋白状態になり、血管壁が出血しやすくなること、妊娠前に高血圧症の既往がなくとも、妊娠中毒症により高血圧になることを、また、医師の常識として、何らかの基礎疾患があれば高血圧が誘因となって脳出血発症の危険があること、脳出血が死亡をもたらすことを、それぞれ熟知し、又は当然熟知しているべきであった。

イ そして、被告は、前記2(一)(2)のとおり、妊娠及び妊娠中毒症により和美の血圧が上昇し高血圧状態になっていたこと、蛋白尿があったことを知っていたのであるから、右低蛋白状態により和美の血管が出血しやすい傾向になっていたこと、したがって、また、脳出血の危険があることを予見することができた。

(2) 具体的予見可能性

脳出血の症状として、①発作時に更に血圧が上昇し、頭蓋内圧亢進の神経症状である頭痛、嘔吐などを伴うことが多いこと、②高血圧性出血の六〇パーセントを占め、最も発症頻度が高い被殻出血は、初めは上下肢の脱力を感じる程度であるが、次第に進行して弛緩性の片麻痺になり、意識障害は、最初はないか、あっても軽度であるが、血腫の進展とともに次第に進行し、しばしば昏睡状態に陥るが、意識障害が軽いときは、頭痛、ときに嘔吐が見られることが挙げられるところ、本件入院時、和美は、脳出血を示す脳症状・神経症状である頭痛、嘔気、脳出血の危険・進行の徴表である脳圧亢進症状や脳膜刺激症状を示す項部痛としての背部痛などを訴え、脳出血発症の危険・進行の症状例に該当していたのであり、したがって、被告は、右各症状と血圧状態などを考慮して、和美に頭蓋内圧亢進等の脳症状があると診断すべきであったし、その診断は可能であり、脳出血及びその結果としての和美の死の危険についての予見可能性及び予見義務があった。

(3) 脳出血発症の場合の処置

ア 脳出血等の脳卒中患者に関し、最近は、CTスキャンなどの高度の診断技術の導入により、呼吸と循環を維持しながら、早期に設備の整った施設へ搬送し、早期診断、早期治療(開頭手術など)をすることによって予後良好の症例も増加している。また、被殻出血は、外科的療法の適応があり、出血時点で、開頭手術等により血を出す等の処置をすれば、予後不良の原因となるような脳ヘルニアは起きない。したがって、頭蓋内圧亢進等の脳症状により脳出血の危険がある場合には、その時点で、CTスキャン等の設備のある施設へ搬送すべきである。

イ 和美は、本件入院時、脳症状があり、入院後も、頭痛、項部痛などが持続していたのであるから、当然脳神経外科の医師に委ねるべき症例であった。

(4) しかし、被告は、前記(2)の予見義務及び右(3)の搬送義務に違反して、右脳症状、脳圧亢進症状を見落とし、何ら根拠もないのにこれを胃腸症状と誤診し、その結果、和美を、設備の整った施設に搬送すべきであったにもかかわらず、何の処置も採らないまま入院させた。

(四) 入院後処置の懈怠

被告は、入院後、午前九時ころ近くまで和美の診察をせず、血圧や全身状態を特別に観察することもせず、午前九時過ぎころに和美が呼吸困難を起こすまで、脳出血を防止する有効な処置を採らなかった。

(五) 呼吸困難となった後の措置

(1) 前記2(二)(5)のとおり、和美は、脳出血発症後呼吸困難を起こしたものであるが、この段階では、胎児を犠牲にすることをも覚悟して母体の手術を選択し、また、その選択に係る判断をするためにも、呼吸と循環を確保した上で被告が付き添い救急車で救命センターのような設備の整った施設に搬送すべきであったし、午前一〇時二五分ころに和美が死亡するまで一時間半位の時間があったのであるから、搬送することは可能であった。

(2) しかし、被告は、右義務に違反し、和美を搬送する措置に出ず、和美の救命を自ら行おうとして熟練を要する気管内挿管に失敗して気道確保ができず、そのまま漫然と応援医師の到着を待っていた。

(六) 救命可能性

前記4(三)(3)アのとおり、CTスキャンなどの高度の診断技術による早期診断と開頭手術などの早期治療により予後良好の症例も増加しており、被殻出血も外科的療法の適応があるところ、本件にあっては、本件入院時に、被告が和美の脳症状に気づき、その時点でCTスキャン等の設備のある施設へ搬送することが可能であったこと、脳症状発症から死亡までは八時間以上あったことからして、和美を救命することは可能であった。

(七) したがって、(1)本件事故当日以前においては、被告が、和美の全身状態の観察と適切な治療を怠り、妊娠中毒症の重症への移行を防止せず、かつ、妊娠末期重症妊娠中毒症を看過放置し、その結果として生じる高血圧による脳出血の危険を防止しなかったこと、(2)本件事故当日にあっては、本件入院時及びその後に、和美の状態を観察し、適切な処置治療をすべき義務を怠ったことによって、和美が死亡するに至ったものであり、被告は、原告らに対し、民法七〇九条の不法行為責任に基づき、又は和美との間の診療契約上の債務不履行に基づき、和美及び原告らの被った損害を賠償する責任がある。

5  損害

(一) 和美本人の損害と相続

(1) 損害

ア 逸失利益 二六五三万九九三五円

和美は、死亡時三二歳の健康な女性であり、本件事故により死亡しなければ、その後三五年間は就労が可能であった。そこで、昭和六三年当時の同年齢の女性の収入水準に基づき計算すると、和美の得べかりし利益は、次のとおり算出される。

三二歳の女性の年収 二六六万五〇〇〇円

(三〇歳ないし三五歳の所定内給与平均月額一七万五〇〇円の一二か月分と賞与六一万九〇〇〇円の合計額)

控除すべき生活費 五〇パーセント

控除すべき中間利息に係る三二歳女性のホフマン係数 19.9174

266万5000円×0.5×19.9174=2653万9935円

イ 慰謝料

和美は、原告正晴と結婚し、初めての出産を目前にして希望に満ちた生活をしていたが、本件事故によって和美の人生は突然終わりを告げたのであり、そのため和美が被った精神的苦痛に対する慰謝料は、二〇〇〇万円を下らない。

(2) 相続

原告正晴は、和美の夫として、和美の逸失利益及び慰謝料の合計額四六五三万九九三五円の三分の二に当たる三一〇二万六六二三円を、原告幸利及び原告絢子は、和美の直系尊属として、右請求権の各三分の一の半額に当たる七七五万六六五五円を、それぞれ相続して取得した。

(二) 原告らの固有の損害

(1) 原告正晴

原告正晴も、妻と誕生を目前にした子(胎児)を一挙に失ったものであり、かかる精神的苦痛に対する慰謝料は、一〇〇〇万円を下らない。

(2) 原告幸利及び原告絢子

原告幸利及び原告絢子は、初孫の出産のため大事をとって和美を実家に引き取り、近くの被告医院に通院させながら、和美が無事出産することを心待ちにしていた。本件事故の当日も、和美は、元気に歩いて入院したにもかかわらず、容体が急変したとの連絡を受けて原告絢子が被告医院に駆けつけたときには、既に和美は死亡しており、その最期を看取ることもできなかった。かかる精神的苦痛に対する慰謝料は、各自、五〇〇万円を下らない。

(三) 原告らの損害合計

前記(一)(2)の和美から相続した損害額と右(二)(1)、(2)の原告らの固有の損害額の合計は、

(1) 原告正晴 四一〇二万六六二三円

(2) 原告幸利及び原告絢子 各一二七五万六六五五円

である。

6  結論

よって、不法行為又は診療契約上の債務不履行に基づき、被告に対し、原告正晴は、四一〇二万六六二三円、原告幸利及び原告絢子は、各一二七五万六六五五円及び原告正晴につき内金二〇〇〇万円に対しては訴状送達の日の翌日である平成元年一〇月二一日から、内金二一〇二万六六二三円に対しては右額を請求した第一八回本件口頭弁論期日の翌日である平成四年四月八日から、原告幸利及び原告絢子につき各内金五〇〇万円に対しては訴状送達の日の翌日である平成元年一〇月二一日から、各内金七七五万六六五五円に対しては右額を請求した第一八回本件口頭弁論期日の翌日である平成四年四月八日から各支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

二  請求原因に対する認否・反論

1  請求原因1は、いずれも認める。

2(一)  同2(一)は認める。

(二)  同2(二)(1)は認める。(2)のうち、被告が和美の血圧を測定しなかったことは否認し、その余は認める。被告が、和美の血圧を測定したところ、最高一六〇程度であったが、カルテへの記載が漏れたにすぎない。

(3)ないし(5)は、いずれも認める。

3(一)  同3の頭書きは知らない。和美の死因は不明である。

(二)  同3(一)のうち、(4)の和美に脳出血の原因となる血管の脆弱性をもたらす基礎疾患がなかったことは否認し、争い、その余の原告の主張は、一般論又は可能性ある機序としては認めるが、本件が右主張のとおりであることは争う。

(三)  同(二)は否認し、争う。妊娠中毒症性脳出血は、妊娠中毒症症状の高血圧に脳血管の攣縮が加わって脳出血を起こすものであるが、日本産婦人科学会妊娠中毒症委員会の一九八五年(昭和六〇年)の妊娠中毒症の新分類では、妊娠中毒症とは別個の成因によるものとして、妊娠中毒症の特殊型から除外され、学問上も、妊娠中毒症に起因する合併症ではないとされる。その概念を認めるとしても、一般に高齢者や子癇発作後に合併して発症することが多く、他方、頻度は、子癇、常位胎盤早期剥離、肺水腫に比べて少ない。これらの事情に照らし、また、和美に子癇発作はなかったのであるから、本件脳出血は妊娠中毒症脳卒中ではない。

4(一)  同4(一)の(1)、(2)は、一般論として認める。

(3)のうち、妊娠中毒症に対する治療として安静、食餌制限等があることは認め、薬物治療に係る主張は否認し、争い、その余は争う。

(4)のうち、和美は、三一歳の高齢初産婦であったこと、被告は、三月七日に妊娠中毒症であるとの診断をつけたこと、食餌指導が必要であったことは認め、妊娠中毒症罹患の時期及び程度、並びにその余は、否認し、争う。

(5)のうち、同月二二日(妊娠三九週)には和美が重度妊娠中毒症に相当する最高血圧を示したことは認め、その余は否認し、争う。

(6)のうち、被告が、和美に対し、三月七日、一四日及び二二日の三回、子宮頸管熟化剤マイリス1の静脈注射をしたことは認め、その余は否認し、争う。

(二)  同4(二)のうち、和美は、入院時、みぞれが降る寒い夜に、被告医院まで歩いてきたことは認め、その余は、否認し、争う。

(三)  同4(三)(1)アのうち、被告は、本件事故当時、二〇年以上の経験を有する産婦人科医であったことは認め、妊婦が低蛋白状態になりやすく、血管壁が出血しやすくなること、妊娠前に高血圧の既往がなくとも、妊娠中毒症により血圧が上昇して高血圧になること、及び何らかの基礎疾患等があれば高血圧が誘因となって脳出血を起こす危険があることは、右各事実が客観的に存するとの限度で認め、和美が被告との間で原告ら主張の準委任契約を締結したことは否認し、その余の主張は、否認し、又は争う。

イのうち、被告が、妊娠及び妊娠中毒症により、和美の血圧が妊娠の進行に伴って徐々に上昇し高血圧状態になっていたこと、蛋白尿があったことを知っていたことは認め、その余は、否認し、又は争う。

(2)のうち、和美が、入院時、頭痛、嘔気、背部痛などを訴えていたことは認め、その余は、否認し、又は争う。

(3)アは、知らない。イは、争う。

(4)は、否認し、争う。

(四)  同3(四)のうち、被告が、和美の入院後、午前九時ころ近くまで自らは診察をしなかったことは認め、その余の主張は争う。

(五)  同3(五)(1)のうち、和美が呼吸困難を起こしたこと、午前一〇時二五分ころ死亡したことは認め、その余は、否認し、争う。

(2)のうち、被告が、気管内挿管を再度やり直したことがあること、及び応援医師の到着を待ったことは認め、その余は、否認し、争う。

(六)  同3(六)は、否認し、又は争う。

(七)  同3(七)は、否認し、争う。

5(一)  同5(一)(1)は争う。(2)のうち、原告正晴は、和美の夫であること、原告幸利及び原告絢子は、和美の直系尊属であることは認め、その余は、否認し、争う。

(二)  同5(二)は、いずれも否認し、争う。

(三)  同5(三)は、争う。

三  被告の反論

1  和美の死亡原因とその機序

(一) 和美の死亡原因は明らかでなく、仮に原告主張のように脳出血であるとしても、その種類・発症機序は不明である。

(1) 脳出血は、脳実質内に血腫の形成されたものであり、血腫形成原因疾患として、脳動脈瘤、動静脈奇形、小さな血管腫、脳腫瘍などからの出血・出血性素因などがある。

(2) 脳出血の約七五パーセントは、高血圧性脳出血であり、出血原因となる明らかな疾患がなく、高血圧症が長期間持続によって血漿性動脈壊死に基づく微小動脈瘤が発生して血管が脆弱化し、これが破綻して脳実質内に出血し、血腫を形成したものであり、五〇ないし六〇歳代に好発する。

(3) 原告らは、和美には先天的奇形、脳腫瘍、動脈瘤破裂などの血管の脆弱性をもたらす基礎疾患はなかったと主張するが、①和美は、死亡時三二歳であったこと、②和美の高血圧は、請求原因2(一)(2)のとおり、妊娠三八週、三九週の二回の検診に認められた短期間のものであったにすぎず、通常の場合、妊婦は、分娩時のいわゆる「いきみ」による血圧上昇に耐えるものであることからすると、和美の脳出血は、本態性高血圧症に基づく通常の高血圧性脳出血ではなく、脳動脈瘤その他脳血管の病変・奇形等の先天的素因による血管脆弱性を主因とする非高血圧性のものである。

(4) 他に和美の血管脆弱化をもたらした原因として妊娠中毒症に伴う低蛋白血症が考えられるが、いずれにしても、妊娠中毒症による高血圧及び低蛋白血症は、一因又は誘因にすぎない。したがって、仮に、和美が妊娠中毒症ではなかったとしても、潜在していた血管の脆弱状態が「いきみ」の際の高血圧状態によって、いっそう急激に脳出血の発症、死亡という経過を辿ったと考えられる。

(二) 和美の死因が脳出血ではなく、脳くも膜下出血であったとしても、事情は同じである。

(三) したがって、高血圧に対し注意を要することは当然であるが、逆に高血圧であれば、これらの血管変性、したがって、また脳出血等の発症の具体的予見可能性、予見義務があるとはいえない。本件において、被告が、和美の血管変性を、具体的に予見することは不可能であった。

2  妊娠中毒症の治療状況について

被告は、和美の妊娠中毒症に対し、妊娠中毒症分類に基づく診断をし、処置を講じており、被告の行為に違法な点や債務不履行は存しないし、和美の脳出血との間に相当因果関係も認められない。

(一) 妊娠中の高血圧又は妊娠中毒症の予防・治療は、食餌療法が原則であり、最近は、胎児の生命尊重の比重が増加し、降圧剤などの薬物療法は差し控える傾向にあり、降圧剤の選択は、子宮胎盤血流量や腎血流量、及び児に対する影響を考慮して慎重に決すべきこととされる。

(二)(1) 和美の場合、妊娠中毒症の三症状(高血圧、蛋白尿、浮腫)のうち、主要症状は高血圧のみであった。

(2) 二月二日の和美の最高血圧一四三は、軽度妊娠中毒症の血圧の基準最高一四〇を僅かに超え、妊娠中毒症も疑われたが、浮腫、尿蛋白、尿糖全て陰性であったため、経過観察した。三月七日時点では、血圧は最高一四四・最低八四、浮腫下肢「+」、尿蛋白「±」、尿糖「−」であり、請求原因4(一)(6)のとおりマイリス静注を行うとともに食餌療法及び安静の生活指導をし、経過観察した。

(3) 三月二二日の最後の診察時の血圧最高一七七・最低一〇五は、重症の分類に入る値であるが、同月七日に見られた浮腫も消失し、尿蛋白「+」、尿糖「−」であり、重症と軽症とのボーダーライン上にあった。被告は、浮腫、蛋白尿など最も危険な因子が軽度であったため、危険を冒して直ちに降圧を必要とする状態ではないと判断したこと、和美は、三一歳初産で、軟産道軟化が見られず、妊娠中毒症による胎盤機能低下の可能性が強く、分娩が遷延する「ハイリスク分娩」となることが予想されたこと、高血圧下で胎盤機能が均衡している状態において、降圧剤を使用すれば、胎児胎盤循環を悪化させ、胎児の仮死や死亡又は後遺症を招来する危険があったことから、被告は、臨床現場における産婦人科医の常識的判断として、また、和美が入院を希望しなかったことも併せ、食餌制限と安静を指導し、経過観察することとした。右時点では、和美には高血圧の既往がなく、年齢、血圧上昇の経過などからして、高血圧状態が直ちに脳出血などの母体の危険に結びつくよりも、むしろ分娩遷延及び妊娠中毒症に伴う胎児胎盤の機能低下の危険性が高いと判断されたのである。

(三) 被告の右対応・処置は、胎児の生命、身体への危険性、有害性と有効性とを衡量し、それらの均衡の上に治療法を選択すべき医師の裁量の範囲内のものであって違法性はない。本件において、降圧剤を投与すべきであったとは認められない。

(四) また、和美は、前記(二)(3)のとおり、子宮頸管は軟化せず、分娩遷延が予測されたため、毎日適度の歩行を行うことを推奨し、三月七日以降、頸管を軟化させる目的でマイリス注射を継続したが、頸管が軟化しなかった。そこで、その熟化を待ち、妊娠暦日などを勘案し無理せず分娩誘導が可能になるまで待つこととし、分娩誘導措置は採らなかった。そして、脳卒中発症の事前予測は極めて困難なものであるところ、頸管未熟の状態で分娩誘導していれば、分娩経過はかなり難航し、その結果としてかえって血管の破綻を招来したであろうことは間違いない。

3  和美入院前後の状況

(一)(1) 和美の本件入院時の診察所見では、子宮収縮、子宮軟化又は開大はいずれも認められず、児心音は正常であった。被告は、痛みの発現が突発的であること、嘔気その他の消化器症状が強いことから、陣痛開始の可能性は少ないとみて食中毒又は当時流行していた消化器症状を主訴とする感冒による細菌性の消化器の急性炎症を疑診した。しかし、消化器痛の刺激で陣痛が誘発される可能性もあること、当日は日曜日のみぞれの降る寒い夜であったこと、そのため内科系医師の受診も受けられない可能性があったことから、和美を朝まで入院させて様子を見ることとしたが、胎児への影響を考慮して薬剤投与は控えた。

(2) 和美は、入院に同意し、処置室から約一七メートル離れた陣痛室へ歩行入室した。

(二)(1) 脳出血は、多くが健康と思われていた人に突発し、急激に発現・進展する脳血管性卒中発作症状を呈し、後頭部・頂筋の激痛、めまい・神経発作、眠気、運動・知覚障害、四肢のしびれ感、脱力感、麻痺、鼻出血、一過性言語障害、軽度精神障害、乳頭浮腫・滲出を伴わない網膜出血等の前徴、意識障害等が見られる。

(2) しかし、和美には、意識障害その他前記の脳出血を疑わせる前徴・神経症状もなく、消化器痛と嘔吐が最も強い主症状であった。頭痛も割れるような頭の痛みなどではなく、細菌性の急性炎症では、強い消化器痛や嘔吐に頭痛が伴うことは当然考えられる。そして、頭痛、嘔気は、既に起こりかけていた小出血による可能性もあるが、とすれば、他の症状も現れず、かつ、和美は前記(一)(2)及び後記4(一)のとおり、容体急変の直前まで自ら歩行していたことからして、和美の脳出血は、典型的症状を欠く非典型的症例に該当するものである。右症状を欠き顕性には発現することがなかった理由は、出血が早い時期から脳室、くも膜下腔に穿破し、占拠性病変が生じても、局所除圧が得られて脳実質への圧迫やその損傷が少なかっためである。また、脳出血の発症が潜在的であったにもかかわらず、予後不良となったのは、出血血液が髄液流に乗って側脳室、第三脳室、第四脳室、脳幹部くも膜下腔、脳底部くも膜腔に達し、下位脳幹部のくも膜下出血が髄液流を閉ざし、頭蓋内圧の亢進とが重なり、呼吸中枢である延髄機能に障害を来たし、呼吸麻痺又はショックがもたらされたためであると考えられる。

(三) 前記1のとおり、和美に潜在していたと思われる血管の脆弱性・変性等の具体的な予見可能性は認められないというべきであることに加え、右(二)のような頭痛、嘔気の症状をもってしては、被告が脳出血の発症又は進行の予見可能性・予見義務があるとはいえず、したがって、被告が、脳出血を診断し得なかったとを被告の診断上の過失とすることはできない。

4  入院後の推移

(一) 午前八時五〇分ころ、和美に再び処置室に歩行入室してもらい、被告が診察したが、軽い子宮収縮、外子宮口の一センチメートル開大及びこれに伴う軽度子宮出血が認められ、消化器痛・痙攣の刺激による陣痛が発来したものと思われた。被告は、分娩を自然の進行に任せることとしたが、頭痛、嘔気、嘔吐などが依然として持続したため、投薬を考えたが、嘔吐のため内服は無効になる可能性が高く、また、電解質バランスを回復させる必要があると判断し、補液及び抗生物質ホスミシンSの点滴投与を決め、矢作看護婦に準備をさせ、和美には、観察室に歩いて行ってもらった。

(二) 午前八時五五分ころ、被告は、和美にホスミシンSの過敏性の皮内反応テストを行い、午前九時五分ころ、右テストに異常がないことを確認して点滴を開始し、和美に診断内容、今後の見込み等を説明し、異常のないことを確認して観察室を出た。和美には、知覚麻痺、運動麻痺、言語障害その他脳出血に特有の症状は一切認められず、その後、助産婦が、二回、和美と会話を交わしつつ投薬したが、その間も和美に異常は認められなかった。

(三)(1) 午前九時一〇分から一五分ころ、内藤看護助手が、和美が呼吸困難となっているのを発見し、午前九時一五分から二〇分ころ、被告は、酒井助産婦から連絡を受けて観察室へ赴くと、和美は、顔面蒼白、顔面の発疹と呼吸困難が認められ、脈はきわめて微弱であった。右病状の変化は、急激かつ重篤であった。被告は、アナフィラキシーショックの疑いと判断して点滴を中止し、酸素を投与し、血管確保のため輸液セットをマルトスーに交換し、抗ショック剤デカドロンを静注した。この間、気管内挿管の準備をし、その完了とともに気管内挿管を行ったが、和美の吐物で挿管チューブが汚染され、再度挿管し直した。

(2) 午前九時四〇分ころ、被告は、刑部医師に応援依頼の電話をし、再び和美に対し酸素を流して加圧呼吸を行った。午前九時五〇分ころ、刑部医師が到着し、被告は、吐物で汚染されたチューブを抜き、刑部医師が、持参したチューブで再度挿管し、純酸素による加圧呼吸を行った。右時点では、和美の血圧は下降して既に測定不能であった。昇圧剤カルニゲンの点滴投与、アレルギーによる肺の強度浮腫軽減のため利尿剤ラシックス静注及び呼吸促進剤テラプチック筋注を行い、挿管状態で加圧呼吸を継続し、カルニゲンやテラプチックの追加などの処置をしたが、次第に和美の自発呼吸は消失した。

(3) 午前一〇時ころ、和美の心臓は停止し、心臓マッサージによる一時的回復はあったが、加圧呼吸、心臓マッサージ、生圧剤及び呼吸促進剤の投与を繰り返すも、回復せず、午前一〇時二五分ころ、和美は死亡した。

5  救命可能性

和美の死因が、脳出血、又は脳くも膜下出血等であるとすれば、妊娠中毒症に対し入院治療を施し、又は三月二七日の入院後早期にこれらを疑診しえても、救命することは不可能であった。

(一) 脳出血が発症した場合、三〇パーセントないし半数は死亡するのみならず、和美の脳出血が高血圧性によるものとした場合、

(1) 和美の解剖所見によれば、被殻出血巣は4センチメートル×3センチメートル×1.7センチメートル大であり、生前もほぼ同サイズの脳内血腫があったと推定すると、保存的治療として入院安静処置を選択し、血圧を正常値に降下させていたとしても、妊娠後期で腹腔内圧が亢進しやすい条件下にあり、さらに出産にはいきみを要することからして、これを乗り切り、脳出血の増悪による予後不良とならずに済んだ可能性は皆無であったと考えられること、

(2) 胎児の救命のため帝王切開を実施した場合も、脳出血が増悪して和美を救命することができなかった可能性が大きいこと、

(3) 脳出血手術をする場合、被殻出血の血腫除去と脳室出血のドレナージを行うことになるが、CTスキャン上頭蓋底部髄液槽が消失している例では、いかなる治療をしても予後不良であるところ、和美の場合は、この例に相当すること

からして、和美が救命可能であったとは認められない

(二) また、本件においては、脳出血は急速に増悪し、被告らが前記4(三)のとおり救命措置を講じたにもかかわらず、その効果を得られなかったものであり、そもそも右(一)のような手術処置を採ることも困難であった。

(三) 仮に、和美の脳出血が妊娠中毒症脳出血であったとした場合、右脳出血は、発症後早期に発見されたとしても、予後は不良であって救命可能性があったとはいえず、したがって、また、被告がこれを発見しなかったことと和美の死との間に因果関係はない。

四  被告の反論に対する原告らの認否・反論

1  被告の反論1のうち、和美が死亡時三二歳であったことは認め、その余の主張は、争う。

2(一)  同2の頭書は、否認し、又は争う。

(二)  同2(一)は一般論として認める。

(三)  同2(二)ないし(四)のうち、和美の血圧、浮腫、尿蛋白の状態、三月七日以降、マイリス注射をしたこと、及び分娩誘導をしなかったことは認めるが、その余は、否認し、又は争う。

3(一)  同3(一)のうち、被告が、消化器の急性炎症を疑診したこと、当日は日曜日のみぞれの降る寒い夜であったこと、及び和美を入院させたことは認め、その余は不知、又は争う。

(二)  同3(二)(1)は不知。(2)は否認し、争う。

(三)  同3(三)は、否認し、争う。

4(一)  同4(一)のうち、午前八時五〇分ころ、被告が和美を診察したこと、頭痛、嘔気、嘔吐などが依然として持続したこと、並びに補液及び抗生物質ホスミシンSの点滴投与を決めたこと認め、その余は不知、又は争う。

(二)  同4(二)のうち、被告は、ホスミシンSの点滴投与をしたこと、看護婦が投薬したことは認め、その余は不知、又は争う。ホスミシンは、ナトリウムを含有し、高血圧症患者には不適である。また、看護婦は被告の指示により、妊娠中の投与の安全性が確立しておらず嘔吐の副作用があるアセチルスピラマイシンを制限使用量の二倍の四〇〇ミリグラムと、副作用の危険のあるポンタールを投与しており、いずれもかえって有害な処置であった。

(三)  同4(三)のうち、午前九時一〇分から一五ころ、和美が呼吸困難となっていたこと、被告が、デカドロン等被告主張の投薬をしたこと、気管内挿管を行ったが、再度挿管し直したこと、被告は、刑部医師に応援を依頼したこと、及び和美は午前一〇時二五分ころ死亡したことは認めるが、その余は知らない。

5(一)  同5の頭書きは、否認し、争う。

(二)  同5(一)(1)のうち、和美の解剖所見では、被殻出血巣は4センチメートル×3センチメートル×1.7センチメートル大とされていることは認め、その余は、否認し、又は争う。(2)、(3)は、否認し、争う。

(三)  同5(二)、(三)は、いずれも否認し、争う。

第三  証拠〈省略〉

理由

一本件の経緯

1  請求原因1、2(一)、2(二)(1)、(2)のうち、被告が、和美の血圧を測定しなかったことを除く事実、(3)ないし(5)は、当事者間に争いがない。

2  右1の事実に、〈書証番号略〉、被告本人尋問の結果(一部)並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。

(一)  和美は、昭和六三年三月二五日ころを分娩予定日とする懐胎時三一歳の初産婦であったが、昭和六二年中は、和美の健康状態及び妊娠経過は順調であり、同年八月二四日の血圧は、最高一〇六、最低七六であり、その後も大きな変動はなく推移した。

(二)  和美は、昭和六三年一月八日、分娩のため、実家の近くにある被告医院を訪れ、被告の診察を受け、以降定期的に通院し、診察を受けた。

(三)  和美は、右受診開始事実までの間、高血圧症や腎臓病に罹患したことはなく、一九歳の時に盲腸手術を受けた以外に入院したことはなく、健康上の問題点を指摘されたことはなかった。

(四)  被告医院におけるその後の診察の際における血圧、尿検査の結果は、次のとおりであった。なお、被告は、二月一五日の診察の際に和美の血液を採取し、荏原医師会の臨床検査センターに依頼したが、異常はなかった。

(1) 二月二日(妊娠後期三二週) 血圧最高一四三以上・最低七八

(2) 同月一五日(妊娠三四週) 血圧最高一四〇・最低七八、尿蛋白「±」

(3) 同月二二日(妊娠三五週) 血圧最高一三三・最低七四

(4) 同月二九日(妊娠三六週) 血圧最高一四二・最低八七

(5) 三月七日(妊娠三七週) 血圧最高一四四・最低八四、浮腫「+」、尿蛋白「±」

(6) 同月一四日(妊娠三八週) 血圧最高一六九・最低九九、尿蛋白「+」浮腫下肢「+」

(7) 同月二二日(妊娠三九週) 血圧最高一七七・最低一〇五、尿蛋白「+」

(五)  二月二日時点において、和美の最高血圧一四三は、軽度妊娠中毒症の血圧の基準最高一四〇を僅かに超えていたが、浮腫、尿蛋白、尿糖が陰性であったため、被告は、経過観察することとした。

(六)  その後三月七日時点においても、和美の最高血圧は一四〇を超え、浮腫「+」、尿蛋白「±」も見られたため、被告は、妊娠中毒症と診断した。また、被告は、和美の軟産道がやや硬く、分娩遷延が予測されたため、頸管を軟化させる目的でマイリス注射を行った上食餌療法及び安静の生活指導をし、場合により同月一八日前後に分娩誘導を行うことをも考えてその旨カルテに記載し、経過観察することとした。マイリス注射は、同月一四日、二二日にも行ったが、頸管は軟化せず、被告は、その熟化を待ち分娩誘導が可能になるのを待った。

(七)  三月二二日の血圧最高一七七・最低一〇五は、重症の基準最高血圧一七〇を超えていたが、同月一四日以降浮腫は消失していたこと、軟産道が軟化していない上、妊娠中毒症による胎盤機能低下の可能性が強く、分娩遷延が予想されたところ、被告は、降圧剤を使用すると胎児胎盤循環が悪化し胎児に悪影響を及ぼす危険があり、直ちに降圧剤による降圧を必要とする状態ではないと判断し、更に経過観察することとした。その際、被告は、右の妊娠中毒症が高い危険性に結び付くものではないと考え、和美に対し、入院指示をせず、また、厳重な安静など妊娠中毒症を前提とする特別な指導はしなかった。

(八)  三月二七日午前二時ころ、被告医院の夜勤の矢作看護婦が、和美から、一〇分前から急激な腹痛、頭痛、嘔気、背部痛が生じた旨の電話を受け、午前二時一五分ころ、和美は、原告絢子に付き添われて歩いて被告医院を訪れた。被告が診察したところ、子宮収縮、子宮軟化又は開大のいずれも認められなかった。被告は、痛みの発現が突発的であること、嘔気等の消化器症状が強いことから、陣痛開始の可能性は少ないと考え、一応、食中毒又は感冒による細菌性の消化器の急性炎症と診断した。しかし、消化器痛の刺激による陣痛誘発の可能性もあること、当日は日曜日でみぞれも降り寒かったこと、そのため内科系医師の受診も受けられない可能性があったことを考慮し、和美を朝まで入院させて様子を見ることとした。その際、胎児への影響を考慮して薬剤投与は控えた。和美は、入院に同意し、処置室から約一七メートル離れた陣痛室へ歩行して、入室し、被告は、医院のあるビルの階上の自宅に戻った。しかし、右診察の際、被告は、和美の血圧を測定しておらず、また、その後の観察を任せた夜勤の矢作準看護婦にも、血圧測定の指示はしなかった。

(九)  夜勤の矢作準看護婦は、午前四時、和美の様子を見たところ、なお頭痛、嘔気、嘔吐、背部痛が続いており、午前六時、八時時点でも頭痛、嘔吐が継続していた。

(一〇)  午前八時五〇分ころ、被告は、自宅から医院に戻り、和美を再び処置室に呼び入れ診察したところ、軽い子宮収縮、外子宮口の一センチメートル開大及び軽度子宮出血が認められ、消化器痛の刺激による陣痛発来と診断した。しかし、頭痛、嘔気、嘔吐などがなお持続していたため、被告は、抗生物質ホスミシンSと電解質バランスを回復させる補液の点滴投与を決め、矢作準看護婦に準備させ、和美を観察室に移動させた。被告は、午前八時五五分ころに和美にホスミシンSの過敏性の皮内反応テストを行った後、午前九時五分ころ、右テストによる異常反応がないことを確認して点滴を開始し、和美に診断内容、今後の見込み等を説明し、観察室を出て自宅に戻った。その後、助産婦が、二回、和美と会話を交わしつつ投薬した。

(一一)  午前九時一〇分前後ころ、和美は呼吸困難に陥り、その後まもなくして被告が観察室へ赴いた際には、和美には、顔面蒼白、顔面の発疹と呼吸困難が認められ、脈は微弱であり、重篤な状態を呈していた。被告は、アナフィラキシーショックの疑いと判断して点滴を中止し、酸素マスクを装着して酸素を投与し、血管確保のため輸液セットをマルトスーに交換し、副腎皮質ホルモンの抗ショック剤デカドロン静注をした上、気道確保のため気管内挿管を行ったが、和美の吐物で挿管チューブが汚染され、再度挿管し直した。

(一二)  午前九時四〇分ころ、被告は、刑部医師に応援依頼の電話をし、再び和美に対し酸素を投与して加圧呼吸を行った。午前九時五〇分ころ、刑部医師が到着し、持参したチューブで再度挿管し、加圧呼吸を行った。右時点では、和美の血圧は下降して既に測定不能であった。昇圧剤カルニゲンの点滴投与、アレルギーによる肺の強度浮腫軽減のための利尿剤ラシックス静注及び呼吸促進剤テラプチック筋注、挿管状態で加圧呼吸等を継続したが、和美の自発呼吸は次第に消失し、午前一〇時ころ、心臓が停止し、心臓マッサージによる一時的回復はあったが、加圧呼吸、心臓マッサージ、昇圧剤及び呼吸促進剤の投与を繰り返すも、回復せず、午前一〇時二五分ころ、和美は死亡した。

3  被告は、本件入院時、和美の血圧を測定しなかったことを否認し、その本人尋問において、和美の入院時の血圧が最高一六〇程度であり、最後の妊婦健診の時である三月二二日より低値であったため安心した旨の供述をしている。

しかし、被告医院のカルテ及びその付属書類(〈書証番号略〉)に右の時点における血圧結果の記載がないことは、同号証によって明らかであり、被告も自認するところ、カルテは、医師法二四条により医師がその作成を義務付けられ、診察治療に際してその内容及び経過に関する事項をその都度、経時的に記載すべきものであって、また、カルテは、看護日誌等これに付属する補助記録とともに、医師にとって患者の症状把握と適切な診療のための基礎資料として必要不可欠なものであるから、記載の欠落は、後日にカルテが改変されたと認められる等の特段の事情がない限り、当該事実の不存在を事実上推定させる上、前示一2(一)の事実を〈書証番号略〉と対照すると、被告は、和美の初診以降、診察ごとに血圧を測定し、これを必ずプレグノグラムにグラフ形式で記載していたと認められること、前示一2(五)の状態からして、本件入院時、被告は、診断・処置内容をもれなく記載する余裕・機会は十分あったこと、カルテとともに編綴された看護日誌には、本件入院時の和美の子宮や児心音の所見については記載があることが認められ、カルテ及び看護日誌に血圧だけ、その記載が漏れたというのは不自然であることを指摘でき、これらを併せ考えると、被告の右主張・供述は採用することはできず、他に前示認定を左右するに足りる証拠はない。

二和美の死因について

1  〈書証番号略〉及び弁論の全趣旨によれば、和美の死体は、柳田純一医師の執刀で司法解剖に付されたが、同医師は、解剖結果に基づく鑑定書において、「脳底面後半部(橋部〜小脳)において、前後径12cm×左右径7〜3.5cmの厚層〜中等層の暗赤色くも膜下出血がある。大脳右半球の被殻部において、前後径4cm×左右径3cm×上下径1.7cmの出血巣があり、右側室内と交通し、左右側室や第三脳室などには暗赤色軟凝性血液が充満している。」とし、その死因については、「山中和美の遺体においては、脳実質内に出血巣があり、脳室内に穿破し、脳底部くも膜下腔に及んでいる。本遺体の子宮腔内に胎児及び胎盤が認められ、心臓はわずかに肥大の感があるが、死因とはなり得ないと考えられ、またこれらのほかにもとくに死因となるような病変などの所見は認められない。すなわち本遺体の死因は、脳出血と考えられる。その原因については明言できないが、おそらく高血圧によるものではなかろうかと思われる。」としていることが認められ、これによれば、和美の直接の死因は、大脳右半球被殻部出血による脳出血であると認められる。

2 右脳出血と高血圧との関係について、前示一2の事実、二1の事実、〈書証番号略〉、証人沖野光彦の証言(以下「沖野証言」という。)及び被告本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨によれば、

(一)  大脳の被殻部は高血圧性脳出血の好発部位であり、大脳出血、殊にそのうち被殻部出血は最も頻度の高いものであること、

(二)  高血圧と脳出血の関係につき、高血圧がいわゆる「堰を切る材料」として脳出血の誘因となる場合が多く、高血圧性脳出血の病態生理として、出血が中程度の場合、血腫自体の体積によって頭蓋内圧が亢進し、数時間ないし二四時間以上を経てから、周囲脳組織の浮腫が加わって頭蓋内圧が更に亢進し、脳ヘルニアを来たすが、外形的な病態生理に関する限り、和美の脳出血の経過はこれに符合すると考えられること、

(三)  和美の血圧は、元々は正常であったが、二月二日の被告医院での受診ころより高くなりはじめ、三月七日の受診の際には、被告も妊娠中毒症の診断をしていたところ、同月一四日には、最高一六九、最低九九と一週間前より最高値で三二、最低値で二一も上昇し、脳出血発症の五日前である三月二二日時点で、最高一七〇、最低一〇五と更に上昇し、その後も和美の状態を改善させる事情は存しなかったこと、

(四)  和美を司法解剖した柳田純一医師が和美の脳出血の原因について、「おそらく高血圧によるものではなかろうかと思われる。」と判断していること

が認められる。

また、妊娠中毒症と高血圧及び脳出血の関係について

(五)  真柄正直、室岡一(〈書証番号略〉)は、「妊娠中毒症の本態は、血管の拘縮にあって、特に重症妊娠中毒症における病理として、脳には種種の程度の浮腫と膨張が見られ、時に点状の溢血や、大きな壊死や致命的な大出血を見ることもある。」としていること、

(六)  関場香ら(〈書証番号略〉)は、昭和五八年ないし六〇年度の厚生省班研究「胎児、妊婦管理および周産期医学システム化に関する研究」のうち「妊娠中毒症の安全管理に関する研究」に依拠して、脳出血等の脳血管障害と妊娠中毒症及びその最重症型である子癇との関係について、実際の症例を基に研究した結果、「妊娠中毒症における血管の脆弱性が脳血管障害の誘因として考えられ、実際、脳血管障害例でも軽度の中毒症症状を伴うことがしばしばある。発症後に認められた高血圧、浮腫、尿蛋白は、しばしば中毒症と類似症状を示すことが多い。病因論的にみても、脳血管障害は妊娠そのもの、あるいは妊娠中毒症による血管の変化などが、なんらかの誘因となっていることが推測される。母体の高血圧と頭蓋内出血は密接な関連があり、高血圧が頭蓋内出血を起こしやすい危険因子の一つである。」としていること、

(七)  東京女子医科大学母子総合医療センターの教授である中林正雄の監修に係る雑誌記事(〈書証番号略〉)によれば、妊娠中毒症による一過性の高血圧に起因する脳出血の実例が紹介され、さらに、三六週後に妊娠中毒症のむくみ症状が出たケースについて、「この時期でも血圧が高くなるのは危険です。陣痛が誘因になって血圧が170/110くらいになる人がまれにあり、その結果、脳内出血を起こすことがあるのです。」と記載されていること、

(八)  倉智敬一ら(〈書証番号略〉)は、「妊娠中毒症性脳出血は、妊娠中毒症症状の高血圧に脳血管の攣縮が加わって脳出血を起こすもので、一般に高齢者に発症することが多く、また、子癇に合併することが多い。」としていること

が認められる。

3  前示1、2の事実によれば、和美の死因は、妊娠中毒症による脳血管の脆弱化と右妊娠中毒症に起因する高血圧が主たる原因となって、大脳右半球被殻部において脳出血が生じたことによるものと推認することができる。

もっとも、証人沖野光彦は、本件について、低蛋白血症による非高血圧性の脳出血の可能性を示唆している。しかし、同人の臨床経験によっても、低蛋白血症による脳出血は、三例程度の極めてまれな症例にすぎない上、前示の司法解剖による鑑定結果が高血圧性の脳出血に一致する事実に照らし、採用できない。

他に、前示認定を左右するに足りる証拠はない。

三被告の責任について

原告らは、被告が、和美の妊娠中毒症の予防・治療すべきであったのにこれを怠り、これを悪化させた結果、脳出血が発症したと主張するので判断する。

1  〈書証番号略〉、証人村田高明の証言(以下「村田証言」という。)、沖野証言、被告本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、本件当時の一般的な臨床医療の知見として、(1)妊娠中毒症は、高血圧、浮腫及び蛋白尿を三大症状とする妊娠後半期の中毒症であり、浮腫が全身に及んでいる場合、尿蛋白が三パーセント以上の場合、又は血圧が最高一七〇以上・最低一一〇以上のいずれかの場合には、重症に分類されること、(2)妊娠中の高血圧又は妊娠中毒症の予防・治療は、一般的には、食餌療法を原則とし、降圧剤などの薬物療法は、胎児に対する影響の危険があることから差し控えることとされ、その使用・選択は、子宮胎盤血流量や腎血流量、及び児に対する影響を考慮して慎重に決すべきこと、妊娠中毒症が重症の場合は直ちに入院させて絶対安静とし、毎日、尿量、尿蛋白等を検し、血圧は最低朝夕二回測定した上、食餌制限を行い、それによっても高血圧症状が改善されない場合には、薬物療法にも及ぶべきであるとされていたこと(〈書証番号略〉、村田証言)が認められる。

2 そして、二月二日時点の和美の血圧は最高一四三で、軽度妊娠中毒症の血圧の基準最高一四〇を僅かに超えていたこと、三月七日時点では、血圧最高一四四・最低八四、浮腫下肢「+」、尿蛋白「±」、尿糖「−」であったこと、同月一四日時点の血圧が最高一六九・最低九九、尿蛋白「+」であること、同月二二日時点の血圧最高一七七・最低一〇五は、重症に相当し、しかも尿蛋白も「+」で、妊娠中毒症の進行が見られたことは、前示一2のとおりであるから、産婦人科医としては、遅くとも、三月二二日時点では、入院による安静処置を採り、これによっても症状が改善されない場合には、降圧剤などの薬物を使用し、その症状の改善に努めるべきであった。もとより、医師が患者に対していかなる治療・処置を行うかは、入院や大学病院等の高度医療機関へ転医させるか否かも含めて、患者の病状、治療効果、治療に伴う副作用や危険性、緊急度等を総合衡量し、専門的見地からその裁量的判断に基づき決すべきであるが、被告が、前示の産婦人科医としての一般的知見による処置をしない場合には、患者に絶対安静の指示を与えた上、経過観察を厳重にし、和美が体の不調等を訴えて、受診したときには、和美の妊娠中毒症に伴う高血圧状態の推移を注視し、高血圧を原因又は誘因とする各疾患をも念頭にした診察態度を執る義務があったというべきである。

3 そこで、被告のその後の処置について判断するに、被告が、三月二二日の時点においても、妊娠中毒症を前提とする絶対安静などの指示を与えることをしなかったこと、和美は、三月二七日午前二時ころ、電話で急激な腹痛、頭痛、嘔気、背部痛が生じた旨を訴え、午前二時一五分ころ、原告絢子に付き添われて歩いて被告医院を訪れたにもかかわらず、食中毒又は感冒による細菌性の消化器の急性炎症と誤り、和美の血圧すら測定せず、また、その後の観察を任せた夜勤の矢作準看護婦にも、血圧測定の指示はしなかったことは、前示一2のとおりである。被告は、その本人尋問において、本件入院時の診察において、言語障害、歩行障害、知覚障害などの神経障害がないことを確認した旨の供述をしているが、前示のカルテ等(〈書証番号略〉)には、右神経症状の有無についての記載は全くなく(被告本人尋問の結果によれば、被告は、和美死亡時後に右カルテ等の記載を点検して、訂正している。)、前示一3のカルテについての判断を考慮すると、被告が右時点において、和美の脳出血を疑って診断したとは認め難い。

ところで、〈書証番号略〉、沖野証言、被告本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、(1)高血圧性脳出血の卒中発作症状として、一般に頭痛、嘔吐、運動障害、言語障害、急な意識障害などがあり、被殻出血の場合には、眼症状、嘔吐、自律神経異常(血圧上昇、呼吸異常、脈拍数増加、発熱)等を呈すること、(2)高血圧性脳出血の前徴症状として、頭痛、特に後頭部及び項筋の激痛、めまい、眠気、四肢のしびれ、脱力感、一過性言語障害、軽度精神障害、意識障害などがあり、頭痛、嘔吐は、麻痺、意識障害及び共同偏視力などと並んで頻度が高く、頭痛、嘔吐などは、既に起こりかけた小出血によるものと考えられること、(3)診断基準・鑑別診断における特有な症状・所見として、血清髄液、高血圧、急激な片麻痺、神経精神症状、活動期中の発作、急速な昏睡、頭痛などの因子が挙げられている(なお、〈書証番号略〉は、卒業後数年間の若い産婦人科医を対象として昭和六一年に書かれた産科・婦人科の臨床マニュアルであるが、妊娠中毒症の管理の項目において、「頭痛の取扱い」として脳疾患などとの鑑別診断手順のチャートを、「[付]脳出血部位の鑑別診断」としてその各疾患ごとの所見を各掲記している。)こと、(4)嘔吐も重要な症状の一つであり、出血による刺激や脳圧亢進を原因とし、大脳半球の大出血では必発すること、(5)脳出血発作は高血圧状態に起きることが多く、その直後から更に血圧が上昇すること、(6)大出血の際には、項部強直もしばしば伴うこと、(7)和美が三月二七日午前二時一五分ころに訴えた頭痛、嘔気、嘔吐、背部痛の症状は脳症状又は少なくもその前駆症状であって、右各症状は、いずれも脳出血の症状又は前徴に該当し、かつ頻度が高く又は診断上重要性が認められるものであること、(8)血圧、脈拍、呼吸はいわゆるバイタルサインとして検査確知し、診断資料とすべきものであり、特に、脳血管障害の急性期には、これらの所見は刻々と変化し、詳細な観察が必要となること、(9)以上の知見は、当時の医学水準に照らし、産婦人科医においても、妊婦に高血圧や頭痛が見られる場合の関連事項として、備えるべき知見であることがそれぞれ認められる。右認定の事実に、被告が、本件入院時において、和美の血圧等いわゆるバイタルサインを測定することができない状態ではなかったことを考慮すると、重症妊娠中毒症に相当する血圧症状を示している和美を入院安静として自ら管理し得る体制に置く措置を採らなかった以上、その後の症状の推移については、一層注意を払い、これを逐次、かつ正確に把握すべき義務を負うに至っていたと認められ、被告が和美の入院時において、和美の血圧を測定することもなく、また、以上のような脳出血発症又は少なくともその前駆症状を看過したことは、通常の産婦人科医師としての注意義務を懈怠したものというべきである。

なお、和美の本件入院時の救命可能性について判断するに、〈書証番号略〉並びに沖野証言によれば、脳出血に対する外科的治療は、その手法は確立していないものの、早期に施行するほど生命・機能とも予後が良く、脳ヘルニア症状の出現初期までは救命可能であり、また、被殻出血についても開頭手術やドレナージにより血液を出す療法の適応があると認められること、和美が、入院後、呼吸困難になるまで七時間近くの時間があり、和美は、診察室と観察室間を自ら歩行して移動していることから、それまでは脳出血は潜在し、軽度のまま継続していたと推認されること、加えて、近年CTスキャン検査及び血液像影により部位などの的確な把握が可能となっていることが認められ、こうした事実に、先の認定事実を考え併せると、被告が、和美の妊娠中毒症による高血圧症に対して適切な対応をなして、これを未然に防止した場合は勿論のこと、和美が被告医院に入院した時点において、脳出血発症又は少なくともその前駆症状を看過せず、婦人科が併設する脳外科施設に、和美の入院時又はこれに近接する時点で搬送していれば、脳出血の発症を発見し、程度・進行状況の応じた治療をし、場合により手術を施行することによって、少なくとも和美自身は救命することができたものと認めるのが相当である。

4  以上の1ないし3からすれば、被告は、和美の出産に関する医療行為に関与した医師として、和美が妊娠末期に重篤な妊娠中毒症に罹っていたのであるから、和美を入院せしめ、安静にする等して妊娠中毒症による高血圧状態を解消すべき注意義務を怠り、さらには、和美について入院看護としないで経過観察とした以上は、和美に対して絶対安静の指示を与えた上、妊娠中毒症に伴う高血圧状態の推移を注視し、高血圧を原因ないし誘因とする各疾患をも念頭において診察を行うべき義務があるにもかかわらず、これを怠り、三月二二日の受診時において、妊娠中毒症に対する適確な指示をせず、和美の本件入院時においても、その血圧すら測定せず、脳出血の前徴症状をも看過して、和美を脳出血により死亡せしめたというべきであるから、被告は、不法行為責任に基づき、和美の死亡によって生じた後記の損害を賠償する責任があるというべきである。

三損害

1  和美本人の損害と相続

(一)  損害

(1) 逸失利益

ア 前示一の事実及び弁論の全趣旨によれば、和美は、死亡時三二歳の家庭の仕事に従事していた既婚女性であり、その死亡により同年齢の女性の平均的収入に相当する額の得べかりし利益を喪失したものと認められる。

イ そして、〈書証番号略〉及び弁論の全趣旨によれば、和美が死亡した昭和六三年三二歳の女性の平均年収は二六六万五〇〇〇円であり、残存稼働年数は三五年間であると認められ、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

ウ そこで、右年収から生活費として三割を控除した金員を基礎に、中間利息の控除に係るライプニッツ方式により、三二歳のライプニッツ係数16.3741として、逸失利益の現在価額を算定すると、次のとおり、三〇五四万五八八三円となる。

266万5000円×(1−0.3)×16.3741=3054万5883円

なお、右額は、原告らが主張する逸失利益の額を超えるが、後記3で判示するとおり、損害賠償額総額は原告らが請求する総額を超えないから、右のように認定することは妨げられない。

(2) 慰謝料

原告絢子本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、和美は、初めての出産を目前にし、入院時も陣痛が開始したとの認識でいたにもかかわらず、突然死亡するに至ったものであり、その精神的苦痛に対する慰謝料として一〇〇〇万円が相当である。

(二)  相続

原告正晴は、和美の夫として、和美の逸失利益及び慰謝料の合計額四〇五四万五八八三円の三分の二に当たる二七〇三万五八九円を、原告幸利及び原告絢子は、和美の直系尊属として、右請求権の各三分の一の半額に当たる六七五万七六四七円を、それぞれ相続して取得したものと認められる。

2  原告らの固有の慰謝料

前示一の事実、原告絢子本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、原告正晴にとっては、第一子の出産であり、原告幸利及び原告絢子は、初孫の出産の大事をとって和美を実家に引き取って近くの被告医院に通院させ、原告らは、和美が無事出産することを心待ちにしていたところ、本件事故当日も、電話でいったん和美がいよいよ出産するとの話を聞いていたにもかかわらず、容体急変の連絡を受けて原告絢子が被告医院に駆けつけたときには、既に和美は死亡しており、その最期を看取ることもできなかったことが認められ、和美と胎児を一挙に失った精神的苦痛に対する慰謝料としては、原告正晴については三〇〇万円、原告幸利及び原告絢子については各一〇〇万円が相当である。

3  原告らの損害合計

前示1の和美から相続した損害額と右2の原告らの固有の慰謝料額の合計は、

(一)  原告正晴 三〇〇三万五八九円

(二)  原告幸利及び原告絢子 各七七五万七六四七円である。

四結論

以上の次第で、原告らの被告に対する本訴請求のうち、不法行為による損害賠償として、原告正晴は、三〇〇三万五八九円、原告幸利及び原告絢子は、各七七五万七六四七円及び右各金員に対する原告正晴につき内金二〇〇〇万円に対しては不法行為の後であり、訴状送達によって被告に対し右額の支払いを請求した日の翌日であることが本件訴訟記録上明らかな平成元年一〇月二一日から、内金一〇〇三万五八九円に対しては不法行為の後であり、右額を請求した第一八回本件口頭弁論期日の翌日であることが当裁判所に顕著な平成四年四月八日から、原告幸利及び原告絢子につき各内金五〇〇万円に対しては不法行為の後であり、前示同様訴状送達によって被告に対し右額の支払いを各請求した日の翌日である平成元年一〇月二一日から、各内金二七五万七六四七円に対しては不法行為の後であり、前示同様右額を請求した第一八回本件口頭弁論期日の翌日である平成四年四月八日から各支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度で理由があるからこれらを認容し、その余の請求は理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条本文、九三条一項本文を、仮執行宣言につき同法一九六条一項を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官筧康生 裁判官深見敏正 裁判官内堀宏達)

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